2008知事選中<081013wrote>

R0011210.JPG20081002知事選出陣式の様子

10月13日、体育の日。快晴。
富山県知事選まっただ中。
適当なサイズ、適当な暮らし、
「てきとう」とは、ちょうどという意味で、それはまさに快適なはず。
適当に生きる、適当な暮らし、適当な地域、
私たちは自分の身の回り、適当の感覚をもっと意識するべきだ。
自分の生きる時代、地域、人間関係は、みずからが選び生きていくはずだ。
人が自己責任の生き物であることをここまで放棄している社会は、危うく脆い。
「安心安全」の社会の実現。この言葉への期待とともに、いつも感じるひとまかせ、にげ、無責任感。共同社会の基本ルール。それは構成者すべてが主体ということ。従って主体としての生き様が基本であり、すべての調整行為は、その前提のもとになされるべきである。社会的弱者とは何か。社会的弱者は、共同体の内にあるちからのひとつである。共同体の放棄者が共同体の利益を同じように享受することを、我々の日本国憲法は予期していない。「民主主義は最悪の政治手法だ。だがこれしかない。」
民主主義の基本は、参政権とその行使。
選挙権というたいせつな基本権を考えるよい機会だと思う。
さて、具体的に今回の富山県知事選挙の場合。
私は石井候補を応援している。
しかし今の現状で、
「投票率を上げたいので、ぜひ投票上に足を運んでください。」といわれて、だれが反応するのだろう。
もちろん選挙は本人の熱意が基本。
「事を知る」者を、事を知らない私も選ぶ、みんなで選ぶ。
有権者に信任無投票などという選択肢はない。
いくかいかないかがあるだけだ。
いくと、かくかかかないかだ。
かくと、えらぶえらばないだ。
ゼロと1のデジタルな仕組みに、わたしたちのこころをあらわす。みらいをこめる。せっかくこういう状況なのだから、投票の意味をしっかりと考えることから、私たちが、ここで、この富山で主体的に生きることの意味につなげたい。
誠に、三つ子の魂百まで。家庭教育、学校教育、社会教育、生涯教育。
体験のない世代には、教育しかない。